2024/04/27

e pluribus unum 

平成30年。
本堂の耐震、お檀家さんが休める客殿、庫裡を新築しようと始まった事業は、様々な事情を経て、全伽藍を新築することとなりました。

境内の樹木には、移植できるものとそうでないものがあり、
「事情があるとは言え、まだ生きられる生命をいただいてしまうことになる」と考え、新本堂の御宝前(ほとけさまをお祀りしているところ)に新たにお位牌を立てて読経しています。

今日はご縁をいただき、ある講演を聞くことができました。

習ったはずが1㍉も覚えていない南北戦争について。講師とよく合う目。相づちと拍手で貢献しようと決めた90分 汗

以下、いつも通り要約。

1861年にアメリカで起こった南北戦争。
北部・・・綿製品保護のため輸入を抑えたい、奴隷制度に反対
南部・・・自由貿易にしたい、奴隷制賛成
北部出身のリンカーンが大統領となり、内戦に発展。北部が勝利。

私の感想?心に残ったものはこんな感じです。
・何かを変えようとするときに、争いが起きるのは必然なのだろうか
・合衆国の言葉「多様なものを一つに」

令和も、それより昔も、いつも。
多様性を受け入れよう!だけでは、なかなか染み付いた考え方や行動は変わらないんですよね。

誰よりそのことを痛感しすぎている、中年の私はこう思いました。

今更色々遅れていること、感覚が追いつかないことを嘆いても仕方ない。せめて、小さい子にどう見られているか、その背中だけは意識しよう。

日蓮聖人はお手紙の多くに一切衆生悉(いっさいしゅじょうしつ)(う)仏性(ぶっしょう)と引用されています。

この世の生きとしいけるもの全てにほとけのたねが備わっている=成仏できる 
ということです

私自身、嫌がらせ、ウソをつかれ、悔しい、認められない、信用できない。そう思うことは未だにあるし、腹を立てている自分に情けないなぁと思います。

一方、その思いだけに支配され、うがった判断はしたくない。とも心がけています。

きれいな建物に嫌な人が住んでいたとしても、「きれいだな」と。
頑張って成し遂げた人を見て、自己嫌悪に陥っても、「頑張ったね」と。
そう口に出せるようにありたいじゃないですか。
ありたいもそうだけれど、それを、子どもにも、生徒にも、会社の後輩にも、目の前の人にも求めていますよね、素直であってほしいと。

じゃあ自分がまずそうでなきゃ。

生きとし生けるものに命があり、その集まりによって自分自身が成り立っている事実。
これをもっと大切にすれば、争うまえに染みついた自分のアカに気づき、トゲつく前にまず、何かを認められる。

そんなことを思った1日でありました。

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