2024/04/24

居心地

唐突ですが、とある本で目にした内容です。

バーテンダーさんが、2杯目の注文を受けたときに、お酒はどこに置くでしょう?
→ 1杯目を飲んでいた場所(を覚えておいて)、に置く
例えば、コースターがあるからここ。こぼさないようにここ、などいろいろな考え方はあるでしょう。しかし
「直前までご自分で置いていた、おさまりのよい、居心地のよい場所」に置くようにするという、サービス?ホスピタリティ?でしょうか。

これだ!と思ったのです。

僧侶やお寺というと、基本的にはみなさま「ありがたい」接し方をしてくださいます。
そして、目上の僧侶から「ほとけさまとの間に入っている」「ほとけさまの代わりにみなさまへ教えを説いている」のだから、へりくだるんじゃない!という教えをいただいたこともあります。

それはそれとして、私の身近な目標としては
・大切なものを思い出せる、気付けるお経をよみたい
・その方がわかる、同じく思い出せるような法号(戒名)をおつけしたい
これにつきます。

むしろ、私のような(まだ)若者(のつもり)は、これができてはじめて「ありがたい」になるのでは?と思うし、それが認められることで、こちらもありがたいです、ありがとうございます。
となるのかな?と、今のところ思ってつとめております。

昨日、100日忌をお迎えしたおばあちゃん。
葬儀の際には、お経の中や日蓮聖人のお手紙のなかから字をお借りしながら、泉という字と、穂という文字をつけました。

先立たれている旦那さまに、過去の住職がつけられた「涌」の字。
精力的にお仕事をされ、子どもが継ぐまでに育て、関わる仕事も人も増やして行った人。と読み取れます。

その一方で、奥さまであるおばあちゃんはどう過ごされてきたか。


湧き出るものを丁寧に囲い、居心地よく、それでいてさらに湧きやすく、誰もが触れやすくされていたであろうことの「泉」。

子どもに恵まれ、家業もうまくいっている、そんなときほど慎ましく、天地と土地を譲りうけたご先祖への感謝を忘れないようにしないと。地域のお経に欠かさず参加されました。
命名に関わったであろうお子さま2人のお名前から、こんどは禾偏(のぎへん)を反対に預かり、そして実る中でも慎ましく、愛情いっぱいに育て上げた意味をもっての「穂」。

世の中のすべてのものを把握するのは不可能で、だからこそ関心とか、興味とかいう本能が必要で。
それにすら、かすらない、触れない、リストアップすらされないものが多いのでしょう。

反対に、少しでも触れ、過ごしたのだから、それを大事に胸に抱いておきたい、忘れないでいたい、自分の人生に活かしてあげたい。そしてこう言ってあげたい。
「ほらおばあちゃん、おばあちゃんの言うこと聞いてたらうまくいったよ」

そんな人が、この世にはたくさんいる。

それがどれだけ心地良いことか。その清らかさは、本人だけでなく、周りから見ている人にも広まっていく。いつの間にか、本人の「にごり」も払われ、救われていく。

ありがたいことに、私はそれを見たり、知ることができたし、毎月毎年関わらせてもらっているのです。

だから、そのためのヒントとなり、スイッチとなり、用意ドン!といってあげられる、そしてそれが聞こえる距離感にいたい。
そして、お経とお名前に、宝石のように光る玉を入れて、いつまでも私たちを照らしてもらいたい、そう願っています。

昔、日蓮聖人に捧げ物をし、読経を願い、手を合わせ祈った方々へ、日蓮聖人はお手紙にこうお返事をされたのでした。

ね(根)ふかければ葉かれず、いづみ(泉)玉あれば水たえずと申すやうに、御信心のねのふかく、いさぎよき玉の心のうちにわたらせ給ふか。

たうとし(尊し)、たうとし(尊し)。

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