2024/04/20

シテ

少し前の話ですが、宮藤官九郎さん脚本の「俺の家の話」という、能の世界の継承問題を描いたドラマを見て、一気に世界に引き込まれました。

主演の長瀬智也さんへの所作の指導を行う能楽師さんが、お知り合いの御婦人の弟さんだったというきっかけなのでしたが、すっかりハマってしまいました。
※少し内容にふれますので、ネタバレになってしまいますが、過去のものなのでご容赦ください。

コミカルさの中に「深く考えさせる」演出をするのが宮藤官九郎さんの作品、私は勝手にそのように思っており、今作品中の「スーパー世阿弥マシーン」について、少しご紹介します。

この世阿弥マシーンは、主演の長瀬さんが覆面をかぶって変装しているプロレスラーです。

なぜ変装が必要なのかをざっくりまとめると

  1. 人間国宝である父の家督を継ぐと言ったのに、能のことだけに集中していないと思われてしまう
  2. 身体に危険であるプロレスを続けることは絶対に受け入れられないだろう

そう考えたからです。

最終的にはプロレス中の事故により帰らぬ人となります。しかし、それがギリギリまでわかりません。本人も、視聴者も。
ドラマ中の演出でもありますが、これはまさしく「夢幻能」という、亡き人が主人公であるという手法?を重ねたものでしょう。


家族、介護、お金や仕事、人間関係、全方面に全力で頑張ってきた世阿弥マシーンの努力や思いは、残された人たちがより強く受け止めることとなり、良い方向へ向かっていくのでした。

寂しさも帯びたハッピーエンドに清々しさと、私も頑張ろう、との思いをいただいたなぁ。そんな余韻の残ったまま、別のある本で目にした文章を要約します。

観阿弥から受け継いだ確かな才能と、合理的で力強い知性の持ち主、世阿弥の作品の一つに「屋島」というものがあり、これはかの有名な源平の争い、屋島の戦いをテーマとしたもの。
この主人公はもちろん、平家を滅ぼす決定的な活躍をした源義経です。
ただ、世阿弥は「義経の罪」にスポットを当てた。義経は天才的な武将であり、悲劇のヒーローでもありますが、その罪とはやはり戦い、殺生、でしょう。
「屋島」の中で、この世とあの世の間をとりもつ僧侶の夢枕に現れた義経が何を訴えたか。今も続く戦の光景です。そこには強い苦しみと逃れられない恐怖や痛みが表現されたのでした。
これは室町時代を生きた世阿弥が、戦の不条理さ、つまりは平和の尊さを、能という芸術を通して訴えた、と言えるのです。

令和を生きる私は、たまたまテレビドラマで「能」というテーマに少しだけアンテナが立っていた。さらに偶然、能の記事が目に入り、そして自分の考えにいたり、行動を起こして今ブログに載せています。

お寺として、みなさまの六感すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意。そのどれかに少しでも触れるものを発信して、ほとけさまを意識してもらいたいなぁ。自分の思いを重ねました。

なぜ意識してもらいたいか。

これは、ひとりの人間としての私の感覚ですが、確実に穏やかになれるから、人にやさしくなれるから、色んな人の優しさを受け取れるようになるから、です。
※あくまで今よりも、です。

もちろん、僧侶やお寺としての使命という点もありますが、それはまた別のものとして。ほとけさまを意識してもらえたら、すぐにスタートします。いや、その前からもう始まってはいるのですが、すべてがつながっていく、動いていることがわかるようになります。

感応道交(かんのうどうきょう)という仏教のことばがあります。

感は、私たちがほとけさまの慈悲を感じ、応はほとけさまが応えてくださること。それらが行きあい交わりあう。
偶然がかさなることは、よりわかりやすい「応」なのではないかなと思うのです。「応援」の漢字を、にもふんだんに思いが込められているように思います。
ふしぎな心強さに、人によっては懐かしく、嬉しく、思わず涙してしまう方もあるでしょう。

我々はときに仮面をかぶったように我慢をし、自分にも言い聞かせてごまかしている時があります。
それが必然なのだとしたら、仮面を遠慮なくとれる場所ときっかけをお寺で準備してさしあげたい。偶然に気付けるよう、芸術、メディア、SNS、いろいろなものの力をお借りして。

そんな思いで今回のブログが無事完成相成りました。こちらに時間をかけすぎて仮面夫婦・家族にならないようにも頑張ろう。おっと。

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