第84回 “さすが”の裏側──日常に潜む小さな差別
There is an English translation at the bottom of this article. It’s a little bit long, however, please read it when you have time
マイクロ=小さな、アグレッション=攻撃。
自覚のない差別、のこと。
褒め言葉のつもりでも、悪気がなくても、誰かを傷つけてしまうことがある。
私自身にも思い当たる節があり、申し訳ない気持ちになりました。
たとえば、つい先日の食事会で私が多用していた「さすが」という言葉。
「さすが、保険を取り扱ってらっしゃるから(この事案を)ご存知で!」
相手を立てているようでいて、
「保険を扱う人は事例を知っていて当然」という決めつけにもなるし、保険を扱っていない方でも事例に向き合うことはあります。
正直、悪気がないからこそ、気づきにくいし、たちが悪いような気がしました。
良かれと思って指摘しても、また指摘されても、場の空気が気まずくなってしまう可能性もある。
だから、より慎重に向き合う必要があるのだと思います。
「おじさんだから覚えるのが難しくて」
私がよく使ってしまうことば。
自分に向けているつもりでも、
- 年齢でひとくくりにする
- その“くくり”を当然のものとして広めてしまう
という、二重の差別を助長することになり得ます。
同じ年代でも、覚えが良い人もいれば苦手な人もいる。
「くくり」を前提にしてしまうことは、差別の温床にもなるのだと気づきました。
こうした価値観は、時代とともに変わっていきます。
100年前、洋服は一部の人しか着ていなかったと言われます。
私自身、出家するまで着物に触れる機会はほとんどありませんでした。
え?寺の息子なのに?そう思ったそこのあなた!
それも、また一つの決めつけですねきっと・・・
変化するのが当たり前。
これは仏教の根本そのものです。
むしろ、この変化はほとけさまから与えられた学びの機会と受けとめたい。
お経の一部分にはこうあります。
遊諸国土 度脱衆生
(種々の姿や形になって諸々の仏国土を巡り、衆生を仏土へ渡そうとする)
南無妙法蓮華経を唱える意義とは・・・
悟りを得るのが目標ではなく、この世の中自体をより良いものにして、自分にも他社にもお題目を唱え、聞かせ、触れてもらうことで、結果的には悟り=成仏を迎える
決めつけるのではなく、あてはめるのでもなく、
一緒に学び、一緒に悩み、より良い方向へ向かっていく。
これこそが、日蓮聖人が示された、そして南無妙法蓮華経の教えです。
