第22回 亡きペットをおあずかりする
このブログを見たり、あるいはホームページを見て問い合わせをしてくださる方がふえてきました。
そのうちの一つに、「ペットに関する質問」が非常に多くあります。
ペットとは、別居というかたちはまず取りませんから、最期の姿を見届ける方がほとんど。
だんだんと生命が薄らいでいく様子を経て、悲しみと感謝と深い寂しさで、しばらくはお骨を自分の近くに置いておきたい方が多いものです。
日蓮聖人のお手紙(千日尼御前御返事)
人は見る眼の前には心ざしありとも、さしはなれぬれば、心はわすれずともさてこそ候に、、、
「人間というものは自分の眼の前では、いろいろと心をこめた世話をしてくれるものだが、遠く離れてしまうと心では忘れていなくともつい疎遠になってしまうものなのに(あなたはそうでなかった)」
ざっくり解説
・千日尼という、佐渡に(罪人として)流されたときに助けてくれた人へ向けた手紙
・住むところを追われたり、罰金を課せられたりしながらも、千日尼は日蓮聖人を支えた
・身延山に住んでからも、遣いをよこしたり、お供えを送ってきたりしてくれている
今は違う場所に住み、直接何かをしてあげることはむずかしい。
けれど、自分がどんな仕打ちを受けてでも尽くしてくれた恩を忘れてはいないよ。
そして、それに応えたい気持ちから、あなたも、同じ立場にある人にも恩を贈りたい。
こういった思いをふんだんに感じました。
ペットの話に戻ります。
昔、ぜんそくがあってペットが飼えなかった私。今も飼ったことはない私。
深い悲しみにあるご家族へ、私は何か出来るのか?
ちょっと有名な歌詞を拝借して
誰もがみんなだいじなものをだきしめている
人それぞれの価値観 幸せ 生き方がある
「人の気持ちになって考えろ」と言われてはきたけど
想像を超えて 心は理解しがたいもの
誠実とは、ときにはっきり「わからない」と言える正直さ。
だからそう、今の私にはとても難しい、、、
むずかしいので、環境だけは整えることにしました。
ペットと入れるお墓、お位牌やお写真骨を預かれる場所、準備しました。
そこから、みなさまの思いの移り変わりや、必要としているもの、嬉しいことや傷つくことも一緒に教えていただきたい。成長させてください、そんな思いもあります。
「目の前で起こること」への丁寧さ、
「目に見えなくても、遠くても、わからなくても」心を寄せようとする行動を学びました。