第21回 パワーの使い道
日蓮聖人の命によって建てられた光長寺。
日蓮聖人は、妙法蓮華経の教えをもって、この世を良くしたい、目の前の困っている人を救いたいと、鎌倉を拠点として行動されていました。
政府への訴えかけは、ある時は謀反、周りからの邪魔、無視。
とうとう受け入れられることはありませんでした。
その後のお手紙にこう記されました。
「仏法を学ぶの法は、身命(しんみよう)を捨てて国恩を報ぜんがためなり。全く自身のためにあらず。」
~私は身命を捨てて国恩に報じたい一心であり、自分の利益のために(いろいろな行動を)しているわけではない~
悲しさ、悔しさ、失望の念を抱えながら、鎌倉を去った後、駿州岡宮の土地を「法華本営の道場に」と示され、光長寺が建てられたのです。
先日のお葬式後、お檀家さんがこう話されました。
本当にありがとうございました。
「葬式立派にするんだろ」とか「あの家は派手」「お金がどう」そんな声、どうでもよくなりました。だって、私も親戚のみなさんも、どれだけの人がこの善意に納得して、救われただろうって思えたからです。
善意の行動を認められない人は、込められた気持ちを理解するできないんだから仕方ないですし、私の出来ることは、悲しみにむきあうこと。
理解してくれるだろう父のためにできること、できる限りしてあげたいと思えました。
数十年前、器の広い上司が教えてくれたことを思い出す。
良かれと思ってしたことが「なんでお前が」「生意気に」「余計なことを」と言われた経験はありませんか?凹んでいる反面、見返してやりたい怒り、ぬるいスープに熱々の麺を入れた状態の私を見て、
上司は端的にこう言いました
・お前が良かれと思って行動したことを、その人以外みんなわかっている。
・誰かを待つ、俺がやったら損、手間。お前はそう言って黙っていられる人間じゃなかっただけ、クセみたいなもんだ
・おとしめて喜ぶ相手をどうにかしよう、そんなもんに能力と体力を使うな。そもそもそういう相手は、今さら手の平を返したり、謝る勇気をもっていない
・周りに人が自然と集まる、必要とされている人たち。それをサポートするため。今しわ寄せが来ている人を支えるために、この後は全力のパワーをそこにだけ使え
充満するオイルの香り、あわただしい店内、機械の音。高い湿度の反面、晴れていく心。当時の状況や心情が鮮明に蘇りました。そして、あのとき頭や胸の重さ、灰色さが一気に払われた感覚も。
亡き人を蘇生することは残念ながらできない。
だけど、我々に本来あるはずの優しくイヤミのない心、平穏。
これを蘇生できるお寺であり、その鮮度を保つお経、法話を届けるためにパワーを使おう。
きっと多くの人で賑わう場所になるはずです。