共有寺
桜の季節には、普段お見えにならない方が足を運んでくださいます。
よくある質問に合わせて、ちょっとお寺の紹介を。
ここ光長寺、西之坊は「檀家寺」です。
各ご家庭のご先祖の供養をして(菩提を弔って)きたので、お檀家さんからすると「菩提寺」と表現されます。(ちなみに法華宗寺院は檀家寺が多いです)
他にはどんなお寺があるのでしょうか。簡単に表現してみますと
「観光寺」
拝観などを主とするお寺。
「信者寺、祈願寺」
ご先祖の供養とは別で、お経への信仰を目的としたり、願い事をしにお参りするお寺。
ほんの一例ですが、一口にお寺と言っても、成り立ちはもちろん異なる役割、目的があります。
というわけで、檀家寺である西之坊の、68代目の住職としてご縁をいただいた私ですが・・・
この西之坊は「共有寺」という存在にしたい、そう思っています。もちろんこれまでのお檀家さんを大切にしながらも、いろいろな人と触れ合えるお寺。
「共同」とは仏教語ですが、同義である「共有」をするお寺。何を共にしよう。出来るなら楽しいことばかり共有したい。
そうはいかない人生ですが、この西之坊に来れば、笑えることも、涙をこらえることも、腹の立つことも、少しづつ共にしてくれる空間と人と、ほとけさまがいる。なので、自然と足が向く。
それが西之坊の目指す「共有寺」です。催しをすること、人を集めること、にぎわうことが目的ではなく、ふらっと立ち寄れてしまうお寺でありたい。
妙法蓮華経の一説をお借りします。(如来寿量品第十六 通称“自我偈”部分より)
衆生所遊楽 衆生(生きとし生けるもの)が遊楽しているところには
諸天撃天鼓 諸々の天界の神仏が天の鼓を撃ち鳴らして
常作衆妓楽 常にたくさんの音楽を奏でている
遊楽とはなんでしょう。それはいわゆる「遊ぶ」「楽しむ」という意味合いを含み超えて、
「ありのままを受け入れる、ただし悲観していない」と受け取れます。
だからこそ、さまざまな場面や人や時間をたくさん共有をしていく中で、いつの間にか笑顔で過ごせていたなら、それが一番良い。
そんな、苦楽共に持ち合える場所でありつつ、やはり楽しめるお寺でいられるように。
観光寺院ではありませんが、思いつく限りの準備をして、拝観される皆さまをお待ちしております。