すなおな思い
本日は、光長寺大本堂にて『開基会』という法要が行われました。光長寺は、御開山日蓮大聖人、開基は日春聖人・日法聖人という僧侶によって建てられたお寺です。
つまり開基会とは、開基のお2人のご法事、ということです。全国から僧侶とお檀家さんやご信者さんが集まり、お経をおあげします。
少し早めに失礼して、自分の坊に戻ったのが16時30分。18時から西之坊の本堂でのお通夜です。そんなこんなでバタバタと今を迎えまして、今日はご家族がお2人お泊りになります。
さて、事務室で残務やらなにやらしていますと、本堂から声が聞こえてきます。最初は話し声かなと思い何気なく作業をしていました。
しばらくして、なんとなく違和感。
ボソボソ、ボソボソ。
やっぱり、違和感。
うまく言えませんが、2人で会話している感じではないのです・・・
少し時間を戻します。
お通夜にて、故人につけた法号(戒名)のお話しをさせていただきました後、私はこう続けました。
私ども法華宗の、そして日蓮聖人の宗教とは、「信心の仏教」なのです。さて、信心の仏教とはどういうことでしょう。
眼の前の人が今こうして目をつぶり、あの世へ、ほとけさまの道へ向かおうとしている。
私どもがこちらでお唱えした、お唱えし続けるこの南無妙法蓮華経は、三途の川では船になるし、冥土の暗い道では灯火になる。そして無事に49日を迎えると、日蓮聖人や色んな方が待っていて出迎えてくださる。これは日蓮聖人がお手紙に書かれているものです。
ただ、体験した人はいないし、なにか裏付けをもってきて証明することも難しい。1足す1は2みたいに、理論として説明できるものでもない。
たしかにそうですよね。
そうですけど、信じてあげたい。信じさせてほしい。
信じてあげたいんですよ、家族だから、お世話になった方だから。
信じたいんですよ、離れるなんて思えないし、絶対近くにいてくれるはずなんだから。
身体の痛みもなく、心配はあるだろうけど、安心して歩みを進めてほしい。楽しくとまでは言わないけれど、そういう道のりの49日であってほしいじゃないですか。
だから、「よくわからないけど」っていう前提があっても良い。
でも、南無妙法蓮華経と唱えます、お経を読みます、お香をたむけ、お供えして、信じて祈ります。
これが信心の仏教というものです。
中略
お通夜の日まで耳が聞こえていると昔から言われています。食事もゆっくりされていってください、久しぶりに集まった方々でいろいろなこと、たくさん思い出話をしてください。悲しみはすぐには消えないかもしれませんが、その分大切にいただいたものに気づくことができるはずです・・・
本堂の声はまだ聞こえていて、なにか困りごとでもあったらいけないなと、足音を抑えて本堂に入ろうとしました。なんとなく、入ってはいけない、と思いました。
「お父さん、長くごめんね。色々話しすぎちゃって、お風呂に入ってくるね。耳が聞こえているっていうから、ついつい、ごめんね。」
ウトウトして、お線香が途切れてしまっても良い。
なんにもしてあげられないなんて自分を責めなくて良い。
そう思いませんか?
だって、すでに立派な「信心の仏教徒」じゃないですか。
※あとがき
実は「信心の仏教」という表現は、私を光長寺に導いてくださった故石田日信聖人という方がよくされていたお話の中でのことば。
よく私がメモしていると「西之坊さん、内容が良いなと思ったら遠慮はいらない。私が言っていたなんて律儀に前置きしなくて良いから、自分の口からどんどん人に話して良いんだよ。」と言ってくださったものです。
全容はまた別の機会に詳しくお話しできたらと思っています。