たった1人でもいい
日蓮聖人お手紙の一説
「今の時は世すでに上行菩薩の御出現の時剋に相当たれり」
我が家は4月から3人の子どもが皆小学生となりました。当たり前ですが、各学年によって、わかりやすい文章問題だったり、表現を変えてみたり、公式を習い始めたりと、年齢によって段階を踏んでいきます。
お経の説かれ方、説いてくれる人も、適切な時期がある、ということです。
昨日7日は西之坊のお講でした。
このお講は少なくとも戦後から続けられていて、戦没者、そして各家の精霊を慰霊をする一座。そのあと、祈願の一座を行うものです。
みなさまお経はバッチリ、独特のリズムや太鼓のタイミングもそろい、住職としては頼もしいメンバーであります。
そんなみなさまをもってしても、この時期に関しては?だったようで、住職の責任を感じました。
というのも、私がなぜこの話題に触れたかというと、日蓮聖人のお手紙の中に「それを教えないのも罪なこと」という意味のことばをあらためて目にしたからです。
あらためて?そう、記憶の片隅にはあったのですが、ニュアンスを見て「あぁ、こんなに強く、また自分に厳しい中でのおことばだったんだな」と感じて、一層責任を感じた次第です。
時期については、要約につぐ要約で表しますと、こんな感じ(詳しい理由についてはまたそのうち)
・お釈迦様が生きている時代(在世)
・お釈迦様が亡くなってから1000年(正法)
・さらに1000年後(像法)
・それ以降の時代(末法) ←令和6年いまここ
私
すみません、お釈迦様がいないのですが・・・
菩薩
あなたはどの時代の方ですか?ほう令和ですか。ふむふむ。
お釈迦様は、あなたの時代を「末法」と名付けて区別しています。
末法に過ごす方たちには「上行菩薩」さんから、「妙法蓮華経」を教わりなさいと説かれていますね、では頑張って👋
~私さんは上行菩薩さんを探すことにした~
私
・・・「妙法蓮華経には、この末法という時代に、妙法蓮華経の教えにしたがい、迫害を受けながらも広めた人が上行菩薩さんらしい、ブツブツ・・・」
村人A
おいそこのあんた、それは日蓮さんのことじゃないか?
私
へ?私はただ、上行菩薩さんといって、正しく妙法蓮華経を広めたり、お経の通りに行動して国から責められたり邪魔された人と、その教えを探しているんです。
村人B
あぁ、そういう人か。真実を広めるために道端で説法して石投げられたり、首を切られそうになったり、島流しに・・・ってそれ日蓮さんやないかーい!
村人C
妙法蓮華経の神力品ってところにもよく説かれているから復習しておくんだよ・・・
令和6年4月、桜満開の光長寺。
「本門八品上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」と、お唱えしているお講の参列者。
妙法蓮華経を広め理解し、また自分もその功徳に預かることのできる功徳の詰まった、
脈々とつながってきた、「お題目」です。
ただ花を見に来ただけであろう方々が、桜並木の参道を歩く。
このお題目が耳に入った人、太鼓の震えを身体で感じた人、境内の焼香台で自然と香をたむけた人もいる。わずかだけれど、みんなで種を撒くことができたのでは。
お講の最後に、ブログをはじめたことをご挨拶しました。
「お釈迦様が私たちの時代を思って残したもの。日蓮聖人がこの地域、また末弟を思って残したもの。その幾分かのながれをいただいて、私たちがここにいます。
私がブログを始めた思いは、100人見なくても、たった1人が、いつかこの文章を見て(あ、私のためのことば、残してくれたものだ)と思ってくれたら。
背中をみつめる思い、わからなくても近くにいてくれる、そう感じてくれたら。
みなさまにもそんな方がいませんか?
だから、どの宗派、どの教えでもいい、ではだめなんです。
大切なひとが、幸せで正しく生きていき、ほとけさまの世界へ向かうことができる、この本門八品のお題目でなければ。」
※お講参加の瀬戸さまより素敵な写真をいただき使用させていただきました、ありがとうございます。