すきとおる眼の力
今年1月、門池小学校の3年生が『門池の宝を伝えよう』という歴史を学ぶ課外学習で、光長寺へ来寺。
昨日、その御礼のお手紙などを担当の先生が届けてくださいました。
子どもたちの独特の角度からの質問に、おびえにおびえていた私。
◯それを察してか、前段階で先生が「あらかじめ聞きたいことはピックアップしてお送りします」という電話の声にひと安心したこと。
◯まだ3年生、変なことも口にできないなどと思い、どんなことを伝えようか、話そうか、毎日眠りにつくギリギリまで考えて、寝不足が続いたこと。
◯当日、大本堂から山門までの約200メートルの道のり、寒風を首筋に感じながらまだ迷っていたけれど、こどもたちの目の輝きを見た瞬間、すべてが崩れ落ち「好きに質問してもらって、そのときの一喜一憂の感情と、ちょっとだけの歴史を持ち帰ってもらおう」と決意したこと。
一瞬ですべてが思い出されて、まだ何ヶ月前のことなのに、随分前のような、それでいてすごく自分の近くにあるような感情を覚えました。
※これをもしかして・・・エモいというのでしょうか?
ちがうのなら教えて下さい、恥ずかしいので。
ある現役の留学生の話を聞く機会に恵まれ、その子が教えてくれたことばが降ってきました。
「日本の授業は情報量が多くとても勉強になる。ただ、先生が95%話し、生徒が5%の質問をする
わたしの国ではフィフティ・フィフティだったからとても驚いた。」
資格を持っているわけでもなく、タイミング次第ではこの場にいなかったかもしれない私が、いただいたこの時間をどう使わせてもらうのがよいか・・・
境内を簡単に案内しながらまた、考えを巡らせて、子どもたちには席についてもらいました。
あらためて、赤いほっぺの上の、にごりのないきれいな白目の子どもたちを見て思う。
「95%、聞きたいことに答える時間にしよう」
先生は玄関で封筒の中のお手紙と写真を出しながら話します。
「また来たいという子どもたちも多く、手紙もみんな進んで書いてくれました。本当にありがとうございました。1番印象に残ったものを多数決で決めて、劇にすることにしたんですね。ちなみに劇の内容は・・・」
その昔、山梨の寺院から光長寺があずかることになった、日蓮聖人直筆の、約3メートル大の曼荼羅(まんだら)御本尊。あまりに豪壮な宝物、これを盗もうとするものは後を絶えなかった。
ある日の夜。とうとうその運び出しに成功した盗人数人は、追手を恐れて夜明けまで休まず歩くことを決意した。「もうここまで来れば大丈夫だろう」と腰を落とし休む、あるいは睡魔に負けた者もあっただろうか。夜明けほどなくして、大きな石のフチで盗人は捕まった。その石まではわずか数百メートルほど、ひと晩中その石を中心に歩き回っていたことになる。
今その石は、御宝物を護る御宝蔵の横に安置されている。その名は【まんだら石】という。
※地域や伝える側(お寺、石をあずかった家、研究者など)から、いろいろな内容がありますが、おおまかにはこうでしょう。
もう少し劇にしやすいことも話したような気がするんだけど・・・ 笑
ただ、不思議なちからで護られているものを疑わない。
それをそのまま受け止めて再現しようとする素直で、なおかつ強い力。
そしてそれを実現できる、まわりを巻き込むもっと強い力、それはあの眼と無垢のオーラ。
なにか自分が無くしていっているようなものを簡単に目の前に出されて、そしてそのまま置いていってくれた気がして、いただいてばかりの時間を回顧。
これもまた、子どもを通した、ほとけさまの子どもである我々への、おはからいのようにも思うのでした。
如来寿量品第16
慧光照らすこと無量にして寿命無数光なり
(仏の智慧の光は形を様々な形であらゆるものを照らし、その寿命と長さは数えきれないほど永遠に守り続けられるであろう)