あかを落とす
以前あるテレビ番組で、シロアリを迷路に入れる実験をしていました。
シロアリは、正しい道や進むべき道を見つけると、先頭のアリが戻ってその道を伝え、行き止まりから戻るアリは、道は間違っているので何も伝えません。
しばらくすると、道を間違えるシロアリは一匹もいなくなり、きれいな線が迷路に出来上がりました。
何度も行き止まりに出くわしたアリ、少しで済んだアリ、全くスムーズに進めたアリ。
経路は違っても、最後は誰もが行くべき道、ゴールへ進むことが出来たのでした。
試すことも、正しい道を進むための行動。行き止まりにあうことも誰かのためになる行動。
すべてが意味のある行動 → 誰もが納得して出来る行動 なのです。
だからでしょうか、中途のケンカもなく、疑うこともなく、自身の行動を全うし、結果全員が迷うことがなくなるのかもしれません。
番組はそんな意図を出してはいなかったでしょうが、私は「人間は必ずしもこうはいかないんだよなぁ」と思ってしまうのでした。
すべき行動が出来ないとは。
人の成功が気になる、素直になれない、イジワル、見てみぬふり、ウソ、嫉妬、見栄、などなど・・・
いくら自分に言い聞かせても、どこかモヤモヤしている。
動物で一番かしこいのは人間なのか。
それは横に置き、感情に左右される生き物であることに異論はないでしょう。
その感情、特に感動は伝染します。シロアリとは違う方法ですが、危険や正解も、もちろん伝えることができます。それを人間なら文字にだってできます。でも、感情が邪魔をすることもある。
これから新しい環境に身を置く人。新しいことをする人。もちろんいつもと同じ日々を過ごす人だって同じ。
もっとすごい人、かなわない人にあってへこんだりするかもしれない、嫉妬もするかもしれない。
けれど、他の人、もちろん他の生物のことを知り、そこから学ぶことで、自分自身も成長することができる生き物、それが人間。これを忘れてはいけないのではないでしょうか。
お経にはこうあります。
「瞋恚愚痴所悩。亦復不為。隠慢嫉妬。諸垢所悩。得菩薩神通」
心に逆らうものを怒り恨んだり、憎しんだりと悩まされることもなく、心が愚かで一切の道理を理解できずに悩まされることもない。また、おごりたかぶって人をあなどったり、嫉妬したり、諸々の心をけがす不浄な垢に悩まされることもない。
きれいなものをそのまま「きれい」と言える。
「頑張ったね」と認めて表現できる。
「お疲れ様」と肩をたたける。
その人が気にくわないから、認めたくないから。
そんな感情で、清らかな感覚を鈍らせてしまう人。それを他人に強制してしまっている人。
自覚無自覚にかかわらず、そんな人が、この世にはいったいどれくらいいることでしょう。
この、人間に溜まった「垢」を、落としてくれるのが南無妙法蓮華経と唱えること、そう先述のお経は教えてくれています。
お経を読めるよう、まずは機嫌よく、そのためには少しでも健康でいられるよう過ごさなくては。