2024/04/03

私たちもアニメーション

時間の有効活用、多様性の理解の一環として、私が最近チャレンジしていること。それは、携帯電話でラジオみたいなものを聞き、なるべく触れたことのないジャンルのものを知る、というものです。

とにかく適当に開いてみた、番組の一つをご紹介。

テーマ【大人になって熱中していることと】 アニメーション作家◯◯さん

「アニメーション? 紙をパラパラめくって、動くように見えるあれのこと? 」
という半信半疑な私が、聞き始め、気づくと、作家さんの説明と世界に引き込まれていました。

インタビューに答えるかたちで、作家さんは口にされます。

「アニメーションは、1秒のものを作る時に、例えば24枚のコマを作り、その全てに手を入れて作成します。動画なら撮影して、要らないところはカットして、はいおしまい!と出来るかも知れませんが、アニメーションは、全てが繋がっているからそれが出来ません。

それだけ手間を掛けてこそ伝わるものだし、そこまでして表現したいものなんだ、というところに意義も感じられる。だから好きで熱中しているし、大きなやりがいをもってこの仕事をしています。」

今回もおじさんはひとり妄想します。

人生というか、人の雰囲気もまた「動画」ではなくて「アニメーション」で伝わっているように思う。

1コマ1コマがつながっていて、切り取ることは出来ない。

さらに考えると、おおもとの土台は幼少期になるのではないか。

きっと、物心つかぬ内から、周りの大人の教えや言葉、思いに触れ、それを真似してきたはずだから。

つまり、優しさや素直さ、「ありがとうと言いなさい」など、大人が教えたがるものは、訓練で出来るものではなく、子どもが小さいころ一番近くにいた親やおとなのふるまいが影響するということ・・・

親としての恐怖感が倍増し、現実に引き戻されました。 涙

小さいこどもに限らず、大人だって、肉親や育ててくれた方の最期を知っても「ありがとう」を言うことを拒み、そもそもその機会すら設けずに送り出す方々がいますし、そういう場面を見てきました。

理由はそれぞれで仕方ないこともありますが、その様子を見ている人々が、次の機会にお世話になって人を送り出してあげようと思うのか、やはり不安に思うのです。

我々僧侶は、法話や読経をすることは当たり前。その上で、ほとけさまに向かう立ち姿やふるまいで、皆様にも「そうしなければ」、と思っていただかないといけない。修行中によく教わったものです。

お経にこうあります(妙法蓮華経提婆達多品第十二)

諸仏の所説、甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、
刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり

色々なはからいや方法でほとけさまが教えを説いて下さる。

それを深く捉えよう、考えようとした瞬間、真実の心がけとなり、退くことなく成仏へ向かうことが出来る。

刹那、つまりわずかでも一瞬でも、お経に触れたり、向き合うことで、ほとけさまの知恵をいただき、自身もほとけとなることができる。

つまり、後悔や失敗した過去、これからの未来を変えることができる。

ご先祖様への畏敬の念や行動、あるいは日常の目に見えないものへの感謝について、薄れてきているのは時代のせいではない。やっぱり、身近に、最前線にいる、僧侶とお寺のせいではないですか?

お経に触れるきっかけ、考えるヒントとなった話、ふるまい。今のままで良いとは到底思えません。

自分自身もほとけさまとつながることの出来た経験がある一人の人間です。

それは、出会う人に刹那でもきっかけを与えなくてはならないということだろう!

慣例、伝統、常識にとらわれるな!

自分がまず、自分自身のアニメーションに感謝と自信をもって進め、そして人の心を動かすんだ!

そんな熱中した思いが伝染して、終わりを迎える駄文でございました🙏

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